なぜ facebook をパソコンで開くのはなぜ辛いのか
PC で facebook を開くのはひどく億劫だ。私が facebook を起動するのはメッセージのやりとりをするくらいだが、それもほとんどスマホでやってしまう。PC で開く理由としては、おそらくニューズフィードの縦覧性が高いからだと思うが、私はすなくとも縦覧することに対してそこまで高いモチベーションがない。いや、むしろ疲れる。疲れるのであればその原因は何なのか考察してみる。
まずそもそも発言するのが疲れる
- あなたは facebook に何か書き込むことを要求される。書き込まなければあなたの承認要求は満たされないからだ
- しかし、書き込むという行為はそもそも疲れるのである
- 会議で発言する時のエネルギー消耗率を考えてみれば良い
- もし、会議で発言してスルーされたら、ひどく疲れてしまうだろう
- あなたが、物書き的なマインドを持っていて書き込むことや自己顕示欲を満たすことにある種の快感を抱くならば、きっと満足できるはずだ。ともおもったが実際にはそうではないような気もする
- 現実的には、建前的な「いいね」が知り合いのような人たちから押下されるだけだ
- つまり、物書きや自己顕示欲を満たすメディアとしては不十分ということにも結びつく
- 現実的には、建前的な「いいね」が知り合いのような人たちから押下されるだけだ
- 会議で発言する時のエネルギー消耗率を考えてみれば良い
- そもそもテーマを与えられてもいないのに書き込むということは通常難しい
- 言い換えれば、よほど内発的にテーマを生み出せる気力がなければ難しいということだ
- 私の承認要求を満たすにはあまりにも疲れる行為である
ニューズフィードに流れている情報は著しくリア充的なコンテンツで私を疲弊させる
社会性が生まれてこれがまた面倒である
- どうやら上司のフィードに対して自動的に「いいね」を押下するシステムが存在するらしい
- 興味のある方は http://shachikunomikata.com/
- つまり社会性が生まれてしまっている
- 昔は「イエスマン」という単語があったが、いまの時代は「いいねマン」といった趣きすらある
- そしていいねを押下しているのは結構特定のクラスタに偏っていたりする
- もちろん仕事の話をやりとりするのも危険だったりする
- 危険の温度感は人によって異なっていることも物事を複雑にしてしまう
- 常識というのは、きっと有効なレンジやクラスタが存在しているから
- では何を書けばいいと言うんだ
- 危険の温度感は人によって異なっていることも物事を複雑にしてしまう